CATEGORY:海軍 戦跡
2016年02月14日
名古屋海軍航空隊伊保原飛行場跡地へ行ってきました。
前日譚は昨年11月まで遡ります。
『ニュートンリング模型日和』のU氏の自主制作映画上映会にて、作品に出演した縁もあり展示に参加した寛永は、幸運にも大村海兵団→土浦海軍航空隊(恐らく甲飛13期後期)→名古屋海軍航空隊にて海軍生活を経験したおじいさんに遭遇しました。これ幸いと色々当時の話を聞いて、是非伊保原飛行場に行こう!と決意したのです。
したのですが、試験だ受験だとやっているうちに一月過ぎ年が変わりここまで遅れてしまいました。計画性の無さ…。
ともあれ無事行ってきましたので探訪記を書いていこうと思います。


隊門です。民家の敷地内に外から見て右側のみ残っています。隊名板を掛ける金具と旗竿を通す金具は健在です。
河和第二海軍航空隊の隊門も残っているのは片側だけなんですよね…。


本部跡地近くには草薙隊の慰霊碑や三景艦の砲弾などがあります。消火栓には山形に錨のマークが入っています。


滑走路は三本ありましたが、そのうち二本はトレースする道路が残っています。一枚目は東西方向の滑走路を西端から、二枚目は北西から南東への滑走路を南端から見た写真です。地図を見るとわかるのですが、1キロ以上に渡りひたすら真っ直ぐです。


エプロンのコンクリート敷きが撤去された今、最大の遺構と言えるのはこの通信壕でしょうか。陣地北部の斜面にありますが、
近年まで埋まっていたのを発掘したそうです。周辺には由来不明のコンクリート片が散乱しています。戦後壕を破壊したのでしょうか?

陣地北東端にあった高角砲陣地。土地の改変が激しく、何かが残っているということはありませんでした。

そのおじいさんは伊保原飛行場を「猿投山のふもとにあったんだよ」と表現していました。私は伊保原飛行場の位置は知っていましたが、猿投山の事をもっと足助よりの方にあると思っており(名鉄の駅の辺りを想像していました)、当時はいまいちピンときませんでした。
ですが今日実際に行ってみれば、陣地の真北にドンと構えているのがよく見えました。木々建物の隙間からチラッと山体が見えた時は思わず声が漏れるほど、その表現に納得しました。きっと昔のように何もない状態であれば、さらに大きく見えたことでしょう。空から見ればなおさらです。
最後にそのおじいさんから聞いた証言を幾つか書き記しておきます。カッコ内は自分の補足です。
・使っていた食器は陶製だった。ホーローのものを使った記憶はない。
・基本的に三種軍装を着ていた。(展示品で一番最初に目をとめたのは略衣でした)
・予科練での服装も緑に染めたものだったと思う。
・罰直は色々あった。予科練時代はテーブル支え・バッター・前支えや南国の花嫁(手箱の上で正座するものらしいです。最初は問題ないがだんだんつらくなる)などなど。搭乗員は目が命だからか、首から上を殴られる事はなかった。名古屋空時代も滑走路(エプロンかも)で前支えをやらせられた。
・陸軍では小銃をサビさせると殴られると聞いたが、海軍ではそこまで厳しくなかった。錆びさせた人もいるがあまり怒られていなかったと思う。代わりに飛行機に傷を付けるとめちゃくちゃにバッターされる。
・訓練で乗ったのは白菊・九三式中練・九六艦戦
・名古屋空では彗星に乗っていた。自分は特攻要員ではなく索敵などをしていた。
・終戦直前のころ、岡崎から移動してきた何機かが特攻に出撃したが、機体の不調か何かが原因ですぐ引き返してきた。(後で自分が調べたところ、攻撃中止の命令が出ていたそうです。名古屋海軍航空隊で検索して上位に出るブログにて詳細な証言が載っています。)
・8月15日は朝方に重大発表があると知らされた。勘のいい人は終戦に気づいたのではないかとのこと。
・継戦派は名古屋基地の中にもいたと思うが、他のところよりは大人しかっただろう。
・終戦後しばらくしてアメリカの軍人が来た。その時「命は大切にせよ」と言われ、始めて戦争の異常さを実感した。戦中は思考が麻痺していたのかも知れないね、とのこと。
『ニュートンリング模型日和』のU氏の自主制作映画上映会にて、作品に出演した縁もあり展示に参加した寛永は、幸運にも大村海兵団→土浦海軍航空隊(恐らく甲飛13期後期)→名古屋海軍航空隊にて海軍生活を経験したおじいさんに遭遇しました。これ幸いと色々当時の話を聞いて、是非伊保原飛行場に行こう!と決意したのです。
したのですが、試験だ受験だとやっているうちに一月過ぎ年が変わりここまで遅れてしまいました。計画性の無さ…。
ともあれ無事行ってきましたので探訪記を書いていこうと思います。


隊門です。民家の敷地内に外から見て右側のみ残っています。隊名板を掛ける金具と旗竿を通す金具は健在です。
河和第二海軍航空隊の隊門も残っているのは片側だけなんですよね…。


本部跡地近くには草薙隊の慰霊碑や三景艦の砲弾などがあります。消火栓には山形に錨のマークが入っています。


滑走路は三本ありましたが、そのうち二本はトレースする道路が残っています。一枚目は東西方向の滑走路を西端から、二枚目は北西から南東への滑走路を南端から見た写真です。地図を見るとわかるのですが、1キロ以上に渡りひたすら真っ直ぐです。


エプロンのコンクリート敷きが撤去された今、最大の遺構と言えるのはこの通信壕でしょうか。陣地北部の斜面にありますが、
近年まで埋まっていたのを発掘したそうです。周辺には由来不明のコンクリート片が散乱しています。戦後壕を破壊したのでしょうか?

陣地北東端にあった高角砲陣地。土地の改変が激しく、何かが残っているということはありませんでした。

そのおじいさんは伊保原飛行場を「猿投山のふもとにあったんだよ」と表現していました。私は伊保原飛行場の位置は知っていましたが、猿投山の事をもっと足助よりの方にあると思っており(名鉄の駅の辺りを想像していました)、当時はいまいちピンときませんでした。
ですが今日実際に行ってみれば、陣地の真北にドンと構えているのがよく見えました。木々建物の隙間からチラッと山体が見えた時は思わず声が漏れるほど、その表現に納得しました。きっと昔のように何もない状態であれば、さらに大きく見えたことでしょう。空から見ればなおさらです。
最後にそのおじいさんから聞いた証言を幾つか書き記しておきます。カッコ内は自分の補足です。
・使っていた食器は陶製だった。ホーローのものを使った記憶はない。
・基本的に三種軍装を着ていた。(展示品で一番最初に目をとめたのは略衣でした)
・予科練での服装も緑に染めたものだったと思う。
・罰直は色々あった。予科練時代はテーブル支え・バッター・前支えや南国の花嫁(手箱の上で正座するものらしいです。最初は問題ないがだんだんつらくなる)などなど。搭乗員は目が命だからか、首から上を殴られる事はなかった。名古屋空時代も滑走路(エプロンかも)で前支えをやらせられた。
・陸軍では小銃をサビさせると殴られると聞いたが、海軍ではそこまで厳しくなかった。錆びさせた人もいるがあまり怒られていなかったと思う。代わりに飛行機に傷を付けるとめちゃくちゃにバッターされる。
・訓練で乗ったのは白菊・九三式中練・九六艦戦
・名古屋空では彗星に乗っていた。自分は特攻要員ではなく索敵などをしていた。
・終戦直前のころ、岡崎から移動してきた何機かが特攻に出撃したが、機体の不調か何かが原因ですぐ引き返してきた。(後で自分が調べたところ、攻撃中止の命令が出ていたそうです。名古屋海軍航空隊で検索して上位に出るブログにて詳細な証言が載っています。)
・8月15日は朝方に重大発表があると知らされた。勘のいい人は終戦に気づいたのではないかとのこと。
・継戦派は名古屋基地の中にもいたと思うが、他のところよりは大人しかっただろう。
・終戦後しばらくしてアメリカの軍人が来た。その時「命は大切にせよ」と言われ、始めて戦争の異常さを実感した。戦中は思考が麻痺していたのかも知れないね、とのこと。